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zoom RSS 母の死

<<   作成日時 : 2014/09/14 23:42   >>

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父が4月に逝き、9月になって母も逝った。
二人とも80を越えていたし、闘病を経てのことなので、心の準備はあった。
ただ、涙の一滴も出ない自分が冷淡なのではないかと、自分を責めたり疑ったりする気持があって、一人で考え込んでしまう時間が増えてしまった。

思えば父が亡くなったとき、母があまり悲しんだ素振りを見せないことがショックで、私は内心で「もっと悲しんでくれよ」と繰り返していた。
しかし、その態度は母らしいといえば、母らしかったのだ。

母は、父の容態が悪化するより前に、すい臓ガンの手術を受け、手術自体はうまくいったものの、再発していた。
放射線治療や抗ガン剤で、病気と闘っている最中だったのだ。
不幸中の幸いというべきか、痛みはなく、普通に歩いて家事をすることができたので、まだまだ元気であるかのように、私を含めた周囲が錯覚していただけだった。

……

母は、感傷をもたない人だった。
娘時代に草刈をしていたとき、誤って右手の人差し指と中指の第一関節から先を失った。
それでも母は、涙一つこぼさなかったという話を親戚から聞いた。

まだ若かったのだから、肉体的な痛みはともかく、指先を失ったことを悔やんだり、嘆いたり、あとあとまでひけめに思ったりしてもおかしくなかった。
しかし、そのことについて、母は私達にも何一つコメントしなかったし、そのことをまったくハンデにはしなかった。
おかげで私達もそのことを何とも思わずにすんだ。

母は失ったものをくよくよしても意味がない、と割り切っていたのだろう。
自己責任、という言葉が流行るずっと前から、そんな風に生きてきた。
晩年でも、病院に入院するときは一人で歩いていき、退院が決まればさっさと歩いて帰ってきた。

そんな母に、私は一人で生きていくことを教えてもらった。
田舎育ちの次男なので、家を出て独立しなければならなかった。
故郷を離れ、大学に入ったときに、わりと重い病気にかかり、4年半闘病生活を送った。
その間にはひと月余りの入院生活もあったが、母を含め家族の誰も見舞いに来ようとしなかった。
それは、故郷を離れた以上、試練を一人で乗り越えろというメッセージだったのだろう。

19歳の私は、山ほどの薬と、悪化するばかりの病状と、経験したことのない一人暮らしに直面して、どうしようもなく孤独だった。感覚がナイフのように研ぎ澄まされていた。
しかし、家族が見舞いに来ないことは、当たり前のように受け止めていたし、そのことがあまり普通ではないということは、もう少し年月が経ってから、やっと気がついた。

……

母は父の葬儀と四十九日を終えて、少し安心したのかもしれない。
なんだかんだ言っていても、わりと仲のよい夫婦だったのだ。

父の新盆を迎える前に、母は脳梗塞を併発し、右腕が動かなくなって、寝たきりになった。
見舞いに行っても目を開けていられる時間は少なくなった。
しかし、それでも意識はあくまではっきりしていた。
声をかければ誰が見舞いに来たかわかるし、兄弟や甥姪がやってくると、衰えた姿を見せたくないというそぶりを見せたという。

私がいまでも「女性のほうが頭がいい」とか、「女性に一人前の仕事を任せられないはずがない」と思っていられるのは、この母のおかげだ。
18歳の頃、私は大学を浪人して一年間自宅で勉強していたが、勉強の合間に母と毎日のように議論していた。話はけっして噛み合わなかったが、母も私もけっして譲らなかった。

そんなことができた相手が、この世界にもういないということは、なんだか、とてつもなく淋しいことだ。…

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