中国:公的医療保険のお寒い現状

日経ネットで「日本企業『ガラパゴス化』脱出のカギは中国市場に」(2008/11/07)というコラム( 中国市場戦略研究所代表 徐向東氏)を読んでいたら、こんな記載があった。
「インドでは医療保障を受けている人口は全人口の5%を超えないといわれる。これに対して、中国では都市人口の3割以上、全人口の12%以上が医療保障を受けている。しかも中国の経済成長はインドを上回っている。これを見ても、「福祉を犠牲にした経済成長」と言えないことがおわかりになると思う。」
「医療保障」とは公的医療保険のことではないだろうか? インドと比べてどうする。「福祉を犠牲にした経済成長」そのものではないか?
というわけで、中国の公的医療保険について調べてみた。

社会主義中国では、建国当初は医療費はタダだった。
その背景には,「低賃金・高就業・高福祉」という社会政策があった。
しかし、旧医療制度の対象は国有セクターに限られたため、急成長している非国有セクターは絶えず無保険者を生み出し,高福祉をめざした旧制度と大きく矛盾した。
1981年には全人口の29%であった無保険者の割合は, 93年には79%にまで上昇した。」
これが真相である。
(「地域格差からみた中国の医療改革」李為民 東京大学社会科学研究所)2003年10月31日

非国有セクターでは、各「単位」毎の福利厚生が求められた。80~90年代にかけて、中国に進出した日本企業は、現地雇用社員の(退職後も含めた)医療費丸がかえ、退職者の年金給付などが求められ、想定外の出費に撤退を余儀なくされたところも多いと聞く。
一方、改革開放にともない、非効率的な国有企業には、増加する一方の医療費負担に耐えられなくなるところが多数現れ、社会問題に発展した。

その結果、1998年12月からは、都市部の法人従業員及び退職者に対する新しい医療保険制度が発足した。
新制度の考え方は、「最低限の公的保障と自己責任」であり,社会医療保険基金に社会プール医療保険基金と個人口座が設けられている点が特徴である。個人口座には預金利息がつき,本人死亡時には残金が遺族によって相続される。また,個人口座のポータビリティーが保証されている。
ただ、ここで示された「新しい医療保険制度」はガイドラインにすぎず、その具体化については、各都市ごとの裁量にまかせられているため、各都市の医療保険は全く別物であり、都市間で引っ越すとそれまでの保険証は使えない。そんなバカな、と思うが、本当のことだ。

画像病院外に列をなす患者:上海にて

上海で医師をしている山之内淳さんは、ブログで次のように書いている。
「中国では、各市によって公的医療保険の制度が異なっていて、たとえば杭州市民が、上海市で診察を受けようと思っても、杭州市の医療保険は使えません。
そもそも、いまの上海市の医療保険は、日本とはかなり違った制度で、1年間に加入者1人が使える額が決まっていて、それを超えると自己負担となります。一般に、2001年以降に就職した青年世代の1年間に保険が負担する額は700元程度で、仮に医療費がこれを超えたら、ほぼ100%の自己負担となります。逆に、1年間1度も病院に行かなければ、このお金はプールされていきます。…
ですから、どう考えても若者で慢性疾患があったりすると医療費の自己負担が重くのしかかります。…
ちなみに、日本と違って診察料は保険が効きません。よって、完全自己負担になります。医師の給与がなかなかあがらないのも、このあたりと関係があるように思われます。…」

また、上海ではこうだが、ほかの地域ではとてもそこまでは行っていない。

「上海市ではほぼ当たり前になってきた公的医療保険も、中国全土で見てみると都市戸籍取得者の中でまだ60.1%が未加入となっている。さらに、医療保険や失業保険など社会保険に一切加入していない人も、大都市の市民で27.2%、地方の中小都市で51.4%となっており、都市間の格差も大きいことがわかる。農民に対する公的医療保険となると、制度の整備が始まったのがまだまだ最近のことで、まだ大部分の農民は公的医療保険を享受できていないのが実情だ。」
http://www.shanghai.or.jp/osaka-city/news/76.html

大阪市は上海市と1974年に友好都市になり、1996年に「大阪市上海事務所」を上海国際貿易中心ビルに開設して、そのHPの「経済トピックス」にこんなことを書いている。

「上海のような大都市の病院では、中国全国から患者が集まってくる。その数は半端ではなく、有名な教授に診察してもらおうと思えば、予約に3ヶ月待ちというような現象も見受けられる。さらには、ダフ屋が出現して、予約の番号札を高額で売りさばいていることも上海の華山医院や瑞金医院などで発覚した。ダフ屋は徹夜をしてまでも、有名な教授の番号札を獲得してくるという。こうした事情を知らず、田舎から夜行列車や飛行機を乗り継いで、やっとの思いで上海にやってきた患者にすれば、まさに青天の霹靂だ。
どうして、患者は地元の中心都市の大病院で診てもらわないのか?日本人の我々からすれば理解に苦しむかもしれない。背景には、患者の医療に対する不信感があることを忘れてはならない。
…衛生部門がまとめた統計によると、上海近郊の農村エリアで地域医療を担っていて、衛生部門に登録されている医師3700人のうち、短大レベルの学歴の医師で0.7%、専門学校レベルの学歴で18.2%、学歴がない医師が81.2%となっている。 さらに、46歳~55歳の年齢層が54.7%と高く、高齢化の問題が突出している。(2007年7月に「解放日報」報道)
この中では、医学部の大学卒の医師はほとんどゼロに近いことが分かる。大都市には学歴の高い医師が集中する一方で、上海の郊外でさえこの有様なのである。地方都市の場合、どういう状態であるのか想像に難くない。日本の地域医療問題とはまた別レベルの問題であることが分かる。そのため、こうした地方からやってきた人たちは口をそろえて「地元の医療機関は信用できない」と言う。 
…地方の農民となれば、公的医療保険すら存在していないところもまだまだたくさんあり、当然上海で治療するとなるとすべて自費になり、多額の医療費を自己負担しなくてはならない。
こうした現象が、患者と医師の関係を非常に複雑にしている。大都市を中心に、トラブルがあるごとに医療事故だと患者が騒ぎだし、病院・医師を訴える傾向が強い。この上海でも然りだ。
もちろん、一部公立病院にある体制の古さから来る慢性的な問題体質が指摘されているが、そのほかにも、高額の医療費を自費で支払うので、患者の権利意識がよりいっそう強くなっていることも考えられる。
その結果、同年代の大卒サラリーマンと比較しても給与が低く、ストレスが多い医師という職業を辞める人が増えている。広州など中国の大都市で、手取り1000元強(引用者注:約1万5千円)程度の初任給では、生活していくのも大変だ。
転職先は製薬会社のMR(=医薬情報担当者)が圧倒的に多い。そのため、中国には臨床医師資格をもつMRが目立つのだ。その一方で、昨今の医学生の急増にともない、抜けていった人員の補充はそれほど難しくない。医学生の就職難は今も続いており、一部大学では入学試験の合格ラインを大きく下げているところもある。中国医師協会の調査でも、医師をしている親の8割は子供に継がせたくないと答えているほど、割が合わない職業に成りつつある。 」

SARSが問題になった頃、こんなことも書かれている。
「農村の協同医療制度は、ピーク時の1970年代に、全国の農民の約9割が参加するまでに普及したが、生産請負制実施により、運営主体となる人民公社などの集団経済組織が消滅すると解体の危機に陥り、全国での加入率は89年に4.8%に落ち込み、現段階(2003年12月)では10~15%という低い水準である。
…一般に、村医務室で診てもらった軽い病気については、協同医療制度で負担されるが、その他の医療施設で治療を受けた場合は、100元(約1500円)を超える部分はすべて個人負担となる。経済発展に伴い医療費は高騰したが、農民の所得の増加は緩やかなため、ますます治療が受けられないという状況である。豊かになりつつある家族に重病人が出れば、たちまち貧困に陥ってしまう現象は農村でしばしば見られる光景である。今回は、SARSと診断された出稼ぎ労働者が病院を逃げて感染を広めた例がいくつも報道された。彼らが死を覚悟して都会の高度な医療施設から逃げ出した原因は、彼らにとって膨大な借金を抱えてしまうのでは命が助かる意味がないからだったかもしれない。祈とうや魔よけを置く迷信が農村で流行した背景に医療への絶望があることを否定できないだろう。」(「SARSがあらわにした戸籍・医療制度の課題」中口匠・金丹実 2003年12月)

フィナンシャル・タイムズの記者は、数年前、冬の上海で、妊娠中の妻を産科病棟に連れていった時、すぐには産科病棟に入れてもらえなかったときのことを書いている。
「電車の発券カウンターのようなところに並ばせられて、3万元(約40万円)を払わせられた。…とても不愉快な経験だったが、ただの不愉快で済んだのだからまだマシだ。多くの中国人にとっては、生死を分ける深刻な問題なのだ。」2008年8月29日 翻訳gooニュース リチャード・マグレガー)
中国の人たちは、たとえ命に関わる深刻な病気でも、たとえ子どもでも、治療費を前払いするまでは医者に診てもらえない。…
政府の資金援助がないため、中国の病院は(中国には一般開業医の制度はない)どこも、薬漬けの薬局みたいな場所と化した。病院は安定収入の半分を、薬の売上代で得ている。…
中国の医療システムは、医師を含めて誰もができるだけ薬をたくさんを売ったほうが潤うという、そういうインセンティブが随所に組み込まれている。たとえば医師の給料は、どれだけたくさん処方箋を書いたかに連結していて、目標値も設定されている。…病院入り口で患者に「金を払え」と迫る病院を責めるのは簡単だが、金を取れるうちに取っておかないと病院が成り立たないのだ。…
一番さかんに処方されるのは、抗生物質だ。そして抗生物質の使いすぎは、悲惨な結果を招いている。中国衛生部はこのほど、肺炎にかかる子どもの約7割が、抗生物質の使いすぎで治療薬に耐性ができてしまっているという調査結果を発表。中国で最も市民の収入レベルが高い北京、上海、広州の3都市では、7割が9割に跳ね上がるという。
中国の薬漬け医療の問題は中国内でもよく知られていて、マスコミはそれを逆手にとってゲリラ取材をしている。たとえば今年には、中国人ジャーナリストが患者のふりをして10カ所の病院を訪れ、尿検査で尿の代わりにお茶を提出。病院10カ所のうち6カ所が、尿ではない尿に「潜血」を見つけて、ただちに薬を処方したという
中国では、政府が何もしないでいるということはあまりない。この医療危機についてもそうだ。農村部では、地方自治体や個人による保険負担と病院の診療費キャップを結びつけた、協同組合的な医療保険制度が開始。大都市では、低所得者のための家計に応じた医療保険が始まり、5月には病院の収入となる薬価差益に上限を設けた。全国レベルでは、20近い省庁が関わる委員会がこの問題を注視している。
胡錦涛(フー・チンタオ)中国国家主席は、国民皆保険の青写真を作るよう政府に命令したというのが、大方の受け止め方だ。そして命令された官僚たちは、いったいコストがいくらぐらいかかるのかと戦々恐々としている。しかしおそらく来年には、全国展開を目指した基本医療保険の試験運用が始まるだろう。」

もちろん、中南海の高級幹部の医療費は、建国以来ずっとタダである。そのことは大概の国民は知っていて、怨嗟の的になっている。国民全体への福祉が、高級幹部のための福祉、または都市住民のための福祉に変質し、その距離はなかなか埋まらない。この不満を解消できなければ、それも一つの体制の危機に結びついていくことになるだろう。

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