漱石・鴎外はヘタな小説家にて候故、…

小谷野敦『「こころ」は本当に名作か』(新潮新書)を読む。
永年思っていて、血気盛んな頃よく自分で口走っていたことがそのまま書かれていて、とても腑に落ちた。
学生の頃、「大作家の本は処女作から順に読むべきだ」という、今思えばいささか滑稽なアドバイスにしたがって、漱石を「猫」から「明暗」まで読み通した。途中、「虞美人草」は飛ばしたものの、後は律儀に読んでいったのである。
「猫」と「坊ちゃん」は面白かった。「草枕」もなかなかよかった。
ところが、「三四郎」あたりからだんだんおかしくなってくる。
「三四郎」や「それから」には、個々の描写に映像的な新鮮さがあり、そこに魅かれるところもあるのだが、小説としての構築が、どうもあやしい。
「門」になると文章の新鮮さも停滞し、何がいいたいのかわからなくなってきて、「彼岸過迄」はタイトルからしてもう破綻している。
「行人」は哲学小説みたいなもので、個人的には面白がって読めたが、ドラマではない。
それに比べれば、「こころ」には文体に新鮮な感触がよみがえってきていて、漱石としてはましな小説である。しかし、やはりストーリーはどんなものだろうか。
「道草」もきびしい。
「明暗」になってやっと小説らしくなってきたが、途中で終わってしまった。
というわけで、漱石は到底世界的な作家ではないし、翻訳には耐えない、歴史にも耐えないというのが10代の私の結論だった。しかし、人はその話を聞くとあれやこれや漱石を擁護した。
けれど、その話の大半は、作品としての純粋な面白さよりも、漱石がいかに当時の文壇から尊敬されていたか、いかに新しい文体を創始したか、どのように高い見識があったか、という内容であって、小説自体が面白いという話は、あまり聞いたことがなかった。
私は今でも、漱石の作品としては「猫」「坊ちゃん」「夢十夜」だけが将来に残り、ほかは忘れ去られるだろうと思っている。
鴎外はもっと悲惨である。
鴎外こそ、尊敬されはしても読まれない小説家であり、翻訳には値しない。
「舞姫」は高校生の教科書には必ず載っていたが、要するにドイツ人の踊り子と同棲して孕ませたあげく、出世のために女を捨てて狂わせてしまった男の話である。当時としてはセンセーショナルな話だった。それを和漢洋の雅文体に包んで発表したものだから、たちまち大流行したのである。
はっきりいって、イヤな奴だ。
ほかの作品(「青年」「雁」など)もドイツ語やフランス語がちりばめられている割には、たいした内容もない。単なるディレッタントかと思わせる。晩年の「渋江抽斎」の文体は簡潔で新しく、好感が持てるが、これは小説ではない。

というわけで、この二人を読むより、現代の直木賞作家などを読むほうが、はるかに小説の醍醐味を味わえるというのが私の率直な感想だ。この二人の時代から、もう100年近く経っているのだ。上手くなって当然だ。

ちなみに、芥川賞の受賞作を読むのも、漱石や鴎外を読むのと同じような苦痛を感じるときがある。
芥川賞作家は新人なので、ヘタだが可能性を感じられる作品が選ばれる。
そこで、芥川賞受賞作しか読まない多くの読者は、日本人の作家はこんなにヘタなのかと思うのだが、そうではなく、読む側がヘタな小説を選んで読んでいるのである。なんということだ。

私は、戦前で世界的な作家といえば、泉鏡花、宮沢賢治、谷崎潤一郎を挙げるが、あとはどうだろうか。

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