トニー・ジャーとタイの王権

私の小さい頃のムエタイ王者といえば、キックの鬼・沢村忠の好敵手のチューチャイ・ルークパンチャマだった。
タイ人としては重いウェルター級の選手で、沢村より一回り大柄だった。沢村がトドメとばかりに膝でチャランボに行くところを、カウンターの右ストレートでノックアウトした光景は鮮烈な印象として残っている。
でも、21世紀の「ムエタイ超人」は、トニー・ジャーだ。
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彼は小柄で、俊敏だ。タイの象の産地スリンに生まれ、香港のスタントで鍛えて、カンフー映画のエキスをすべて身につけて、タイで映画作りに励んでいる。子供と一緒に見る映画としては、麻薬や娼婦が出てくる場面だけ注意すれば、ほとんどノンストップで楽しめる。
主演第一作がOng Bak(邦題「マッハ!」)。これを子供達と三人で見てはまってしまった。驚くべき身体能力。怪我が絶えないほどの入念な訓練と事前準備。ワイヤーアクションとはちがう、徹底的なリアル。


そして二作目のTom-Yum-Goong(「トム・ヤム・クン」)は、オーストラリアに連れ去られた幼馴染の象を取り戻しに単身敵陣に乗り込んでいくスーパーアクションだ。


ただ、一作一作に凝りすぎて、次回作の発表までに何年も空いてしまう。
Ong Bakが2003年。Tom-Yum-Goongが2005年。主演三作目のOng Bak2は2009年だ(監督になったけど製作途中に失踪しちゃうし)。これでは外国では忘れられてしまう。
ジャッキー・チェンは、人気の出た1978年には「蛇拳」「酔拳」など8本の映画に出ている。粗製乱造の気味もあるけれど、そうしたからこそ人気が爆発したという側面は間違いなくあった。
ただ、トニー・ジャーはそのような時間の流れの中には生きていない。映画の資金問題で行き詰って2ヶ月失踪したときも「実家に戻って象の世話をしたい」とか言っていたようだし、Ong Bak2は大河ドラマのような時代劇だというし。

では、トニ-・ジャーはどんな時間の流れを生きているのだろう。
Ong Bakという一作目は、村から盗まれたアユタヤ朝時代の仏像の頭(Ong Bak)を取り戻しにバンコックに出てきたトニー・ジャーが、同じ村の出身者と協力して、悪い西洋人とその手先のラオス人と戦って、仏像を取り戻す話。
二作目Tom-Yum-Goongは、象と一緒に育ったトニー・ジャーが、象を盗んだ悪い中国人とその手先のベトナム人やアメリカ人と戦い、象の子を取り戻す話。
どちらも、タイのそれまでの村の生活が、外部の人間によって破壊されたために失われた均衡を、村のヒーローが回復する物語である。
印象的だったのは、この村の秩序と、タイの王権との関係だ。
あれほど大事にしていた象を、トニー・ジャーは「国王陛下に象を献上することほど名誉なことはない」と父親に説得されて、象祭りに連れて行く。国王は、仏教の篤い信仰の中に組み込まれ、民意を汲み取り、私心なく公平な判断をくだす宗教的な存在と考えられている。
その信仰のありようは、日本の天皇信仰ときわめてよく似ている。
タイの軍隊はよくクーデターを起こすが、民意を反映して国王の名の下に政権を倒すと、あとは国王に任せて退散することが多い。国王の判断は神聖にして不可侵のものであり、余人をもって代えることはできない。
歴史にもしもはないが、もしもタイが帝国主義国になって周囲の国を従えるようなことになっていれば、戦前の日本ときわめてよく似た状態になっていただろう。
日本は「帝国」を称していたが、天皇の本質は王権であり、帝国を名乗ることには無理があった。神道には多民族国家を統べる理念がまったくないからだ。それに相当する言葉もない。

映画を量産する国は、その国独自の物語を持っている。タイの場合は、仏教信仰の根付いた懐かしいユートピアとしての村のために闘うことが、一つの典型的な物語になりうる。これは、ブルース・リーや初期のジャッキー・チェンが出ていたカンフー映画に似ている。トニー・ジャーの出演する映画を見ていて、こんなことを思った。

これは日本では公開されていないOng Bak2のfight scene。早く全編を見たいものだ。

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